
🕰️『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』を50回観た僕が想像する、1885年のアメリカとドク・ブラウンの人間性
🎬 今日はちょっといつもと違って、映画の話でもしようかと思います。
こんにちは。渋谷区議の矢野けいたです。
実は僕、自称“映画通”でして──中でも『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズは、50回は観たんじゃないかというくらい何度も繰り返し観てきました。
特にパート3。あまり人気がない印象もありますが、僕にとっては一番好きな章です。
それはきっと、舞台となる1885年という時代が持つ“切なさ”と“希望”が、ドク・ブラウンという人物の人間性と重なって見えてくるからなんじゃないかと思うのです。
🕰️ あらすじと、ドク・ブラウンが「1885年」に憧れた理由
『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』は、PART2のラストから直結します。1955年に取り残されたマーティのもとに、70年前の1885年からドク・ブラウンの手紙が届きます。
そこには、「私は1885年のヒルバレーで元気に生きている。絶対に助けに来るな。ここでの生活に満足している」という内容が記されていました。
けれどもマーティはすぐに、1955年のドクと協力して再びタイムマシンを修復。ドクを未来へ連れ戻すため、1885年へタイムトラベルすることになります。
ここで思い出してほしいのが、ドクが西部開拓時代に強いロマンを抱いていたという描写です。
PART2では、1955年のドクの部屋に鉄道模型や西部時代の絵画が飾られており、「1885年のヒルバレー?美しいところだ!」と語るシーンもあります。つまり、ドクにとって1885年とは単なる過去ではなく、子どもの頃から憧れていた“夢の舞台”でもあったのです。
🧪 1885年でも「未来を信じる科学者」だったドク
そんなドクが、1885年のヒルバレーで鍛冶屋として生きながら、たった一つの氷をつくる巨大な装置を作っていた──
それは科学者としての情熱と、西部時代への純粋な憧れが融合した、“ドクらしい”エピソードだったのではないでしょうか。
1885年のヒルバレーで、マーティが鍛冶屋になったドク・ブラウンを訪ねていったシーン。そこにあったのは、氷を一つ作るための巨大な装置だった。
これには笑ってしまう人も多いかもしれない。でも、僕はこのシーンがたまらなく好きだ。科学者ドクにとって、"氷"とは単なる冷却素材ではない。未来への技術の種だ。
1885年という、電気もインフラも未発達な時代において、"冷却"という概念を持ち込み、自作の機械でそれを成し遂げようとする。この異様なまでの前向きさと、どんな時代にいても"未来を生きよう"とするその精神こそ、ドクの魅力だ。
ちなみに、あのスナイパーライフルのような銃を思い出してほしい。首吊りされかけたマーティを、遠距離から一発で助けたあのシーン。(ちなみにこれは冒頭近くで出てきます)
この発明も、1885年には存在しなかった未来的な工学センスに溢れていた。わずか8か月の間に、ドクは氷製造機・ライフル・蒸気機関車を改造したタイムマシンまで作り上げる。これはただの"科学オタク"じゃない。未来を信じる"ビルダー(創造者)"の精神そのものだ。
💘 科学者ドクが恋をする
そしてあのクララとの出会い。
これまで"化学"一筋で生きてきたドクが、ひとりの女性に心を奪われてしまう。まるで少年のように舞い上がり、戸惑い、それでも愛を貫こうとする。
クララの存在が、ドクを"科学者"という枠から解放し、"ひとりの人間"としての彼の魅力を浮かび上がらせる。
パート3は、そんなドクの人間性がじっくり描かれた、実はシリーズ中でもっとも"情"に満ちた作品なんじゃないかと思っている。
🇺🇸 1885年という時代とアメリカの記憶
そもそも1885年とは、アメリカにとってどういう時代だったのか。
すでに南北戦争(1861~65年)は終わって20年。奴隷制は廃止され、鉄道が大陸を横断し、近代化に向けて急速に進み始めたアメリカ。
でも、経済格差・人種問題・西部でのインディアン排除など、課題も山積していた。
それでもなお、西部には希望があった。荒野を切り拓くフロンティアスピリット。自らの手で町をつくり、生活を築くという熱量。ドク・ブラウンは、そんな時代に"科学者"として投げ込まれた。
📺 映画が公開された1985年とは何だったのか?
そして『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が公開された1985年。
この時代のアメリカは、ベトナム戦争後の虚脱から立ち直れずにいた。経済は低迷し、日本には自動車やエレクトロニクスで追い抜かれ、自信を失っていた時代。
そんな時代に、あえて映画が選んだ舞台が"1885年"だった。
それはちょうど、日本でいう"昭和30年代~40年代"、つまり『ALWAYS三丁目の夕日』のような、前向きさと希望に満ちた時代。
ドクが「1885年のヒルバレーは美しい」と語ったのも、単なるロマンではない。
すべてが未完成で、だからこそ未来に賭けるしかなかった時代に、自らの存在を重ねたんじゃないだろうか。
🌄 未来を信じることの美しさ
ドク・ブラウンの生き方は、ある意味で一貫している。
過去に来ようが、未来にいようが、彼は常に"人間の可能性"を信じている。
そして僕たちは、この映画を通じて、1885年という荒涼とした時代にも、科学と愛を持って立ち向かう"前向きな魂"があったことを知る。
✍️ 最後に
西部開拓時代にロマンを感じたのは、ドクだけではない。
僕も、そしてこの映画を愛する全ての人が、「過去に希望を見出す」という体験をしていたんだと思う。
きっとそれは、未来に希望を託すために、一度、過去に立ち戻る必要があるから。
そしてその時代が"1885年"だったことは、とても深い意味があるように思えるのです。
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